今は、一体いつなのだろう。


 閉じられた襖の向こう、緑豊かな庭の方からは蝉の絶唱がこれでもかと聴こえていて、 庭中に隙間無く敷き詰められたその音の弾幕を切り裂く様に、鹿威しの乾いた音が規則的に響いていた。 時折、縁側に吊るされた風鈴が風に揺れて、ちりん…と澄んだ可憐な音を鳴らす。



 外の音の密度自体は相当に高いのにも関わらず、襖1枚を隔てたこの部屋の中は不思議な静けさに満ちていた。 座卓の上に行儀悪く頬杖を付いたまま、目を閉じてその音の奔流に聴き入っていた伊月が、ゆっくりと瞼を開く。 自分を見つめる視線にようやく気付いたのか、向かい側で胡坐を掻いていた日向を目に留めて、ふわりと微笑んだ。

「よ、久し振り」
「………おうよ」

 ぶっきらぼうにそう返した日向の態度に小さく苦笑を返すと、伊月は閉じられた襖へと視線を向ける。 外は35度の猛暑だ。強烈な日差しが、白い襖を発光でもしているかの様に明るく照らしていた。 眩しいのか、向けた黒い瞳を細める。

「…今日も暑そうだな。暦の上ではもう秋なはずなんだけど」
「めっちゃくちゃ暑いよ。マジで蒸発しそうだっつの」
「日向もよく来るよな、ホント毎度毎度ご苦労様な事で」
「…お前が来るからだろ、ダァホ」
「そんな事言われたって、ここ俺の家だし」
「お前こそ…毎年毎年、律儀だよな」

 その言葉に伊月は何も答えず、柔らかな微笑だけを返して来る。 誠凛の夏服に身を包んだその姿は日向の記憶に残る伊月そのもので、 だからこそ、自分が今居る場所が分からなくなる。 夏が来る度に彼と出会って…そうしてまた、時間軸を見失うのだ。


 今は、一体いつなのだろう…と。


 変わらない彼の姿と、変わって行く自分の姿。止まった時間と、動き続ける時間。 そして夏と秋、此方と彼方が音も無く混ざり合うここは、きっとその狭間なのだ。

「…日向ってさ、俺の事怖がんないよね」
「何でお前の事なんか怖がんねぇといけねぇんだよ、お前が怖ぇ訳無ぇだろ」
「いやだってさ…日向のトラウマ植え付けたのって、俺じゃん?まさにいろんな意味で諸悪の根源な訳じゃん?」
「んなの昔の話だろ。もうガキじゃねぇんだし、いちいち怖がったりすっかよ」
「何だ、つまんねーの」
「つまんねーって何だよ、お前一体何しに来てんだよ」
「何って…」

 きょとんと瞳を見開いた伊月が、くすりと笑う。

「…日向の顔見に?」
「…あぁそうかい」
「そうだよ」

 「他に何があんの」と笑って、伊月は大きく1つ伸びをした。 艶やかな黒髪がさらりと動いて、その美しさに思わず目を奪われる。
 伊月が何の為にやって来るのかなんて、日向自身が一番良く分かっているのだ。 そして…伊月も、きっとそれを分かっている。 分かっていながら、互いに分からない振りをして。でも、本当は”振り”をしている事すらも分かっていて。 互いが互いを誰よりも理解しているから、だからこそ、こうして繋がっていられる。…離れられなく、なっている。



 それは、たった1つの言えなかった言葉の為に、幾度と無く繰り返される逢瀬。
 想いは、通じ合っていた。互いに口にした事は無かったが、本当はずっと分かっていた。 ただ、踏み出す覚悟が持てなかったのだ。 今日の続きは必ず明日で、このまま2人一緒に居るのが当たり前だと、そう信じていた。 だから、このままでいいと思っていたのだ。ずっとこんなゆるやかな関係が続けば、と。


 あの日…突然、道が分かたれるまでは。


 伊月の事を最優先に考えるならば、言ってしまうべきなのだとは分かっている。 縛っているのは、自分なのだ。 だが言ってしまったが最後、もう二度と会えない様なそんな気がして、それが何よりも怖かった。 言わなければ、伊月はきっと来年もまたこうして会いに来てくれるのではないか。 そんな勝手なエゴで、もう幾度も夏を数えて、そうして今年も…また、言えずにいる。



 閉じられた襖の向こう、緑豊かな庭の方からは蝉の絶唱がこれでもかと聴こえていて、 庭中に隙間無く敷き詰められたその音の弾幕を切り裂く様に、鹿威しの乾いた音が規則的に響いていた。 時折、縁側に吊るされた風鈴が風に揺れて、ちりん…と澄んだ可憐な音を鳴らす。

 幾度も幾度も、廻り来る夏。 変わらない彼の姿と、変わって行く自分の姿。止まった時間と、動き続ける時間。 夏が来る度に彼と出会って…そうしてまた、時間軸を見失う。

 座卓の向こうの伊月は、穏やかな笑みを浮かべたまま、日向を見つめている。 彼は、いつも決してその場所から動こうとしない。 日向もまた、彼の傍には行かない。 座卓1つ分のこの距離が、互いの間に横たわる絶対に越えてはいけない壁なのだと、暗黙の内に理解していた。
 夏と秋、此方と彼方がその狭間で音も無く混ざり合う。 夏服姿の伊月は、あの日と何も変わらない。 日向の記憶に焼きつく、伊月の姿そのものなのだ。



「…伊月」
「ん?」
「俺、帰るわ」
「………そう」

 伊月の母親が出してくれていた麦茶を飲み干し、立ち上がる。 伊月はその様子を黙って目で追っていた。彼を一瞥してから背を向けると、歩み寄った襖の前で立ち止まる。


「じゃあな」


 後ろを振り返りもせずに、一言そう告げる。


「うん。…またな」


 伊月の声を背中で聞いてから、襖を開けた。 外は光に満ちていて、手入れの行き届いた庭園に植えられた緑が一斉に目に飛び込んで来て、その眩しさに思わず目を細める。

 しばしの間それを見つめていた日向は、襖を閉める為に後ろを振り返る。 そこに、伊月の姿はもう無かった。 座卓の上に、日向が飲んだ麦茶が入っていた硝子の湯呑みだけが、ぽつりと1つ置かれている。



 今は、一体いつなのだろう。 幾度も幾度も廻り来る夏は、まだ終わらない。 ぴたりと閉じた襖の、その向こう。きっと来年の夏も、彼はまたここで待っている。 たった1つの言えなかった言葉の為に、また。



(『またな』…か)



 縛っているのは…本当は、どちらなのか。













遠 い 夏 の 午 後





ネタ的に、どうしてもこの時期にアップしておきたかったので。 伊月の事に関しては直接的な表現はあえて避けてるので、もうお好きな様に解釈してやって下さい。 お互い分かり過ぎてしまうっていうのも難儀だよねっていう、そういう話。



2012/08/15